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残暑まだ感じる札幌です。

朝、窓から見える遠くの山に

わずかながらも紅葉の気配。

いつのまにか

グリーングリーンしていた山ではない。

もう8月だって終わろうとしてる。

そうそう

道路工事が増えている気もします。

そんな季節かと思いながら

矢印に沿って

工事現場のまわり道を

自転車を押しながら歩く。

すると

警備のおじいちゃんが

こちらに背中を向けて

往来をふさいでいるんです。

その目先は

道路工事の作業を見つめている。

いや、見惚れている。夢中。

通れないので

すみませんと言って

よけてもらった。

仕事を忘れてまで

なぜにあれほど集中できたのか。

可笑しみがこみあげてきた。

埋蔵金でもあったのだろうか。

恋をしているのだろうか。

ショベルカーが

前世の母親だったのだろうか。

理由はわからない。


ただ単純に

おじいちゃんだからだろうか。

熱中症になっていないことを願う。


工事のための迂回路を

警備員がふさいでいるなんて

どういうことなのだ。許せない。

って、前は思ったし

やり場のない憤りにかられたはず。


やることやってない人

ちゃんとしていない人。

そういう人が大嫌いだった。


そこには

私は誰よりも

ちゃんとすることを頑張っているという

自負があったのかもしれない。

そこを踏ん張りどころにしないと

なにかが崩れそうになるような自負だ。


でも

ちゃんとするって

どうしたらいいのだろう。


「ちゃんと」の漠然さは、闇だ。

どうしていいかわからない。

基準が持てない。


なので

正しい、正しくないで判断をする。

でも、明確な基準はない。

曖昧さを補うためにのっけるのが

「人として」だ。

これがさらに基準をぼやけさせる。

輪郭をはっきりさせるような言葉だが

どうにでもとれるし

そこで判断をすることで

寛容さがすり減ってしまう。


ちゃんとするって、なんだろうね。

迷宮の呪文のようだ。


通りを塞いでいる

警備員のおじいちゃんに

むかしなら憤りを覚えただろう。


でもまあ、いまは

ほほう。という

いったんブレイクの感情が出てくる。

そのちょっとした間に

けっこうあたたかい感覚がある。

ほほう。のあとには

そうかそうかと続く。

で、どうなん?と問うている。

いいんじゃない?とか

それ以上でもそれ以下でもないと

心が落ち着くと

可笑しみすらこみ上げてくる。


ほほう。けっこういいですよ。

今日もごきげんでありましょう。



2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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