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陽射しの印象と 風の冷たさが伴わない。 夏のまぶしさに 4月くらいのひんやりがある。 断れない。 そんなことない。 けっこう ハッキリと物事を決めていたし 選んでやってきた。 そう思うようにしていました。 けれども ぜんぜん。 断れない代表ってくらい 決めることのこわさが ずっしりと自分にあったんです。 かわいそいうだから。 お世話になったから。 わるい人ではないし。 困るだろうし。 そんな理由がわいてくる。 だけども よくよく考えてみる。 それは頭で考えるのではなく なぜ断れないのか では喜んでイエスと言えていないのはなぜ? 自分が自分に聞いてみる。 すると たいてい 断れずに迷っているときは なにかしら 自分を譲っている場合が多い。 自分をさておき 相手の都合に寄せている。 それを正当化させるように かわいそいうだから。 お世話になったから。 わるい人ではないし。 困るだろうし。 とかとか、理由をつける。 でも、 たいてい そんなことない場合が多い。 かわいそうと 勝手に決め付けていたり たしかに世話にはなったかもしれないけど 自分を犠牲にしてまでやることもなく わるい人ではない人は いい人でもなかったりする。 そんで、 自分の代役はしっかりと存在している。 自ら 本当に喜んでやりたいわけじゃなく 断ることをわるいこととして しぶしぶ引き受けたことは たいてい うまくいかない。 それも やっとわかった。 今まで知ってはいたけれど ぜんぜんわかっていなかった。 自分を喜ばせることもできない 自分を大切にすることもできない そんな人がする親切には心がない。 だから 総じて、失礼だったりする。 本人は精一杯、あなたのことを想っている。 つもりでいっぱいだ。 だけど そこに己の軸がないから 結果的に無神経なことをする。 愛にあふれた顔で 愛のないことをしでかす。 わざとではない。 しかし無意識でしでかすことの罪は大きい。 やるか やらないか やりたいか やりたくないのか なにを迷っているのか なにが引き留めているのか それを聞くのは自分だ。 自分が自分に聞く。 まずは、わからないから始めよう。 正解を探すのではなく ただただ、聞いてみよう。 わからないことがわかったら これほんと 安心が顔を出してくる。 正解を絞り出そうとしなくていい。 それだけでも なんか安心がほくほくしはじめる。 そう思えなかった理由が見える。 選ぶのは自分だ。 心から そう思うってことを 常に選んでいきたい。 自分のために。 ぼくがぼくを大切な存在として 優先させてあげたい。 だから 失礼な人に 無理して合わせる時間はない。 基準ができたら すっと断れる。 以前は断ることの その先に争いがある気がしていたけど やりたいくない。ただそれだけ。 心通わせる人と 育てる時間が大切だと思う。 わかるまで 何度でも聞いていい。 わからなくなっても 何度でも聞いてもいい。 立ち返る場所がある。 まだまだ できてるわけでもないけど やっとそう思えたよ。 今日もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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