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夏至でしたな。 そこを境に 札幌は急に夏らしくなりました。 蒸す。 ちょっと嫌だけど、嫌いではない。 夏らしい奥底にある湿度と 山際と空のコントラストに 目を細めるわけです。 夏至って 太陽の力が最も強まる日で 重大な転換期にもなるようです。 知らねえけどな。 スピリチュアル的な意味での 夏至の影響って それはそうだ。あると思います。 ぜんぜん好きなはなしだし その影響を知ることで 役立つこともあるでしょう。 でもなんだろう 最近のまあ 「スピ」と揶揄されるような 「スピ」に依存することによって 本質を見られなくなっている人たちの なぜかアドバイスを垂れ流す違和感ね。 スピリチュアルって 見えないもののことだと思う。 ざっくり広く言うとね。 神様でも天使でも、 龍でもオーラでもなんでもいい。 その存在を感じて なにかしらの指針として 自分と向き合うきっかけになるのだろう。 つまりは 見えないものの いちばん大切なものは、心だ。 医学的にも どこにあるのか どういう部位なのかもわからないけれど 確実にそいつの存在はある。 しかも、ひとりひとりかならず。 でも、見えない。 見えないから 見たいと思うのだけど 見たつもりになったり 見たくもない場合もある。 よくありたいと願うし 大切にしたいと思うだろう。 でも わからない。 見えないから。 もがく。 確かめたいのに 教えてくれない。 不安がつのることだろう。 そのしんどさを まるっと逃れるように 痛みに麻酔をかけっぱなしにするように スピに頼りっきりになってしまうと よけいに 心がわからなくなる。 手軽な安心 都合のいい解釈で 自分は間違っていないと防御する。 これも違う あれも違う スピスピスピスピ 外にばっかり答えを求めていると 心は眠ってしまう。 それでも自分を守るために 人にアドバイスを発信したくなる。 まるで 成し遂げた人であるかのように。 その甘い言葉たちに 翻弄される人が出てくる。 そういう人は 総じて、失礼だ。 自分を大切にしていないから 人を大切にできない。 ぼくもそうだった。 だからこそ いったん スピリチュアルや信仰や なにかあなたを律しているものを ぜんぶちょっとよっこして 自分について考えてみるといい。 それができないのなら できない理由から探してみてほしい。 本当の気持ちに気づいたとき 言葉では言い表せられない 胸のどまんなかあたりに あったかくてたまらない 温度を感じるはずだ。 それが道標だと思ったらいい。 私が私に 何度でも聞いていい。 それを本気でわかると 安心が生まれてくるはず。 誰のためでもなく 私が私のために生きる。 その覚悟が芽生えたら 心から優しくなれる。 そんなことがわかったから ぼくは しょうもないスピや迷信、陰謀論 それらをごやまぜにした人たちと ただただ、関わらないでいたい。 馬鹿にしたり嫌悪したりもなく ただただ、相手にしないでいたい。 心を通わせられる人と 一緒に過ごしたいと思う。 ただそれだけで なにもいらない。 このことは もっとていねいに 常々、考えいこうと思う。 一粒万倍日って けっこうあるよね。 今日もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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