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自分のことって つくづくわかってない。 50歳になっても 知らなかったことに気づかされます。 どうやら、心配を選んでいる。 この前 JRに乗っているとき 向かい側の旅行客のような女性が 居眠りをしていたんです。 ウトウトして、 膝の上のカメラを落とした。 自撮り対応の棒がついた小型のカメラ。 落ちた瞬間を見て たぶん自分、ショックだったんでしょう。 壊れてない?みたいな。 そっから 目が離せなくなるんです。 向かいの女性は居眠りを続けます。 ゆっくりと船を漕ぎます。 そのたび カメラが揺れます。 膝の上で落ちそうになりながら ギリギリの角度でピタッと止まる。 気になって 気になって 見てしまうから 気にしないように 気にしないように 気になりまくっている。 まるで 落ちる瞬間をもう一度見たいかのように。 しっかりこの目で確かめたいと 見たくないはずの場面を 実は望んでいる自分がいました。 落ちる瞬間がきたら いつでも 受け止めるつもりでもいます。 せっかくの道中 ふらりと小樽まで パートナーと出かけて 楽しかった帰りの車中です。 彼女の会話すら上の空でした。 いよいよ あぶない落ちる!って瞬間 目を疑いました。 落ちないんです。なぜ? うたた寝の女性の 手首にストラップが通され カメラは守られていたんです。 無意識なのか 女性は手首にストラップを通して 落ちないように改善策をしていた。 なのに ぼくは勝手に心配していた。 安全対策をしている人を ぼくは勝手に心配な人として見ていた。 そのうえ また起きるという世界で見ていた。 安心のない世界は、 ぼくがつくっていたんです。勝手に。 びっくりです。 渾身の苦笑いが出ました。 そうかそうか こわいもの見たいのは、ぼくなんだ。 見たくないと思っていたのに。 この世は、こわい。 その意識を自分に向けると 自分がこわい。 そしてそれを見たくなかったと気づきます。 ぐへ! まじすか。です。 そうすると いろんなことが しっくりハッキリつながってきます。 ぼくはどうやら 安心の実態を知らなかったようです。 続く。かも。 今日もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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