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夏が控えています。 大胆な水着にはならないけれど 真剣に痩せようと思っています。 まずは、3キロ。1カ月以内。 消極的な目標ですが 目標設定を刻んでいく所存です。 ゆっくり確実に落としていく。作戦。 で、いま なんとなくつかんでいるのは 食べたいという欲求が けっこうそうでもないということ。 食べたいと思っているだけ。 ぼくの場合 なにかの合間、 打ち合わせに出た戻った 仕事が終わる始めるとか ひと息つくリセット感覚で なにか食べたくなっていることが多い。 ご褒美のように 満足感のあるものを欲するときもある。 あと、食べておこう義務感。 備えておくみたいな。 そして、 食欲とかさておき その味を楽しみたいパターン。 これは、デブの志しだ。 腹が減っている減ってないではなく ハンバーガーを味わいたい ラーメンを味わいたい あの美味しさよカモンと食べたくなる。 これらは、脳の心構えだと思う。 そうしたいと 思い込んでいる。 もしくは そうしたことで 気持ちが満たされた記憶がある。 それを繰り返すのだと思う。 食べるのを禁ずると つらくなってしまう。 なので、ここはひとつ 「カラダをいたわる」という 目標に変換するのはどうだろうか。 禁止ではない。 いたわる。 健康という面で 守る。 育てる。 もっとフォーカスを絞って おなか、大腸とかでもいい。 それは 自分のためになることで 自分が健康で元気でいることは 大切な人のためにもなるはず。 禁酒、禁煙、 いろいろ、禁があるけれど 禁止を自分に課すのは そろそろやめてもいいと思う。 なんか ストイックな気持ちになれて 目標としては「やってる感」があるけど けどだけど 「やってる感」で ごまかしている場合もある。 なにをごまかしているかというと それは、自分だ。 禁止と一体になっている OKと考える方向が同じ目的としてあるはず。 「楽しむ」でもいい。 もっと大げさに言えば「権利」でもいい。 肯定的に前進するための 言い聞かせ方があると思う。 できればそれが おだやかだといい。 それができるまで 試行錯誤してみるのもいい。 禁止には 反動がある気がするんだよね。 原因を外に置いているだけかもしれない。 立派になんかできなくて カラダが重くなって みったくなくなってきたので やっと真剣に考えた。やっと。 それまで 太ったことさえ しっかり認められなかったもの。 食いたいもんは食うぜ。 ほどよく。 今日もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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