top of page

post title

ぼくは 超がつくほど ビビリです。 急に鳴った LINEの着信音にも びくっとします。 漫画のように しっかりと体ごと、びくっとします。 後ろから めちゃくちゃ走ってくる人には 驚きを超えて あ、これ刺されると観念したり、 部屋にかけているコートを 人と間違えて驚くこともあります。 わりと 大声で驚くものですから 周囲の人は 心配というか イラッとします。 もうしわけないのですが やんわりと 笑えない空気になります。 繊細とか デリケートとか 想像力が豊だとかで しょうがないと思っていました。 でも わかったんです。 常にビビってるんです。 デフォルトで 怖れてるんです。 薄氷の上を竹馬で歩いて 頭の上に うんこ水をまんたんにした コップを乗せてるような いかにも例えがたいのですが とにかく 怖れている。 それがわかった。 とにかく デフォルトで怖れている。 では、なぜなのか? その理由を 探しにいかなければなりません。 それを知っているのは自分です。 それを忘れていたのも自分です。 でも それを見るのを いちばん怖れていたのも自分です。 理由がわかると 心底、俯に落ちます。 でも、かんたんに わかるものでもない。 だからこそ 見つけたときの そうかそうかこれかの 納得感はとても大きく じっくり手に持ちながめると 宝物のを発見したような気分になります。 怖れの理由は とても長くなるので、はしょりますが 怖れまくっていたのと同時に 安心を求めまくっていたことに気づきました。 ただ、 怖れまくり過ぎていたので 本当の安心がわからなかった。 安心に似てさえいれば なんでもいいという 節操のないくらいの飢え方でした。 それでは 求めているのと違うので 苦しくなるばかりでした。 でももう わかったんです。 本当に安心していいんだって 自分に言ってあげられます。 大丈夫。 だからちゃんと見てごらん。 その安心は とても強く、おだやかだ。 もう壊れることも壊されることもない。 信じよう。 怖れを手放して 空いた穴からは 勇気がわいて そこに愛が満たされる。 心から満たされたら 今までできなかった想いを含めて はじめて、安心を与えられるはず。 遅かったかもしれないけど まだ間に合う。 ありがとう。 大丈夫だよ。 知りたい人がいたら いつでもいい。詳しく話すよ。 今日もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
bottom of page