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2025.1024 金

今日は

友人の息子さんの結婚式の日。

昨日から前泊しています。

ということをね

投稿予約機能を活用して

木曜日にしたためています。


今頃、どんな気分なんだろう。

初日、なに食べたかな?

なんてこと想像しながら

ぜんぜん関係ないことを書きたい。


この前ね

よく晴れた朝

ポットにお茶を入れたんです。

寒くなると

大きめのポットに

好きなお茶を入れておくのが

ほっとするような

なんかうれしいんです。


それでね

テーブルの傍に置いたポットの

注ぎ口から

湯気が立ちのぼっていたんです。

ゆらゆらと

くるりくるりと

細く線を描くように

まるで

なにか意思があるかのようで

行き先を知っているかのようで

それを

ただじっと見とれていたんです。


秋の早朝の

色づいた斜光が

その湯気の存在を

そっと際立たせていて

ああ、

なんて美しい光景なんだと

いっそ写真に撮りたいと

スマホを覗いてみたんだけど

どうも

実際の感動に劣ってしまう。

それで

すぐ諦めた。

撮らないでいい。

この目で見ていよう。


湯気を撮るのは

ちょっと難しいんです。

という技術面もあるけど

それをさておき

写真に撮るって

その瞬間

その場所にいなくなる感覚がある。

カメラを構えるって

今の感動から離れて

俯瞰的に見るような

「今」という最新の

まっただかなかから

一歩退くような行為でもある。

そう思うんです。

いいとか

わるいとかではなく

そんな特性を感じる。

実際のところ

楽しい場面を

そっとメモするように

シャッターを切る感覚も好きだ。


だけど

そのときは

この湯気を

ただ見ていよう。

この美しさを

ただ浴びよう。

そう思ったんです。


だから

楽しくって

撮り忘れちゃった。って

本当に楽しかったんだと思う。

そのうっかりは

ぜんぜんいいことだ。

楽しいの

まっただなかにいた。

そんな素晴らしいことはない。


記録としての

写真の役割って

とても大きいと思う。

だけど、

「今」は

残すために在るわけじゃない。


結婚式のプロのカメラマンが

そんなこと言ったら

クレイジーだと思うけどね。


急に結婚式に絡めたけども

2泊3日を終えて

写真フォルダーには

旅行の写真が

どれくらい増えてるかな。

いろいろ言ったけど

けっこう撮るほうなんですよ。


ではでは。

今、どんな気分だい?

週末もごきげんでありましょう。

2025.1117 月

ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと

 
 
2025.1114 金

先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室  みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その

 
 
2025.1113 木

センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ

 
 
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