top of page
2025.1117 月
ふぐを食べました。 昨日。51歳にして初めてのこと。 息子の大学合格祝いです。 家族3人で、ふぐを食べました。 合格祝いは何を食べたいか 遠慮しなくていいからと 尋ねてみたらば ふぐを食べてみたいと まっすぐに言うわけです。 食べたことがないからと。 そうかそうかと 予想外の答えに 少したじろいだりもしました。 なぜなら ぼくは ふぐを食べたことがない。 うまい店も知らない。 そもそも 食べたいと思ったことがなかった。 なぜなら ぼくは、刺身とかの 生ものがそんな好きではない。 だいぶ楽しめるようには なってきているけれど 回転寿司で ツナサラダなんか 喜んで選ぶほうだ。 20歳くらいまで 刺身を食べてこなかった。 その理由は たぶんわかっている。 子どものころ 刺身が食べられず断ると 父親に こんなうまいもの食べないなんて 人生の半分を損していると 何度も言われた。 いま、ていねいな表現で書いたけど もっと、雑な言い方だった。 それが めちゃくちゃ腹が立った。 まず それくらいで損をする人生なら そもそもの基盤が貧弱である。 だったら ハンバー
55 分前
2025.1114 金
先日の11/11に行った 「書くことが楽しくなる文章教室 みんなでお茶するかい」の シェアを今日もしたいと思います。 週末のきりのいいとこまで ひっぱらせてください。 配慮と遠慮。 これが隣り合わせである。 文章を書くことにおいて この配慮を持っている人が ぼくは大好きです。 自分が書いたものの先に かならず読む人がいる。 その根元に どう届くのかを想定している あたたかい気づかいがある。 その 当たり前に使っていた 自分のあたたかさは 当たり前だったゆえに気づかない。 自覚がないから 時には、気づかいが 遠慮モードに入っていて たよりないものに感じる。 時には、気づかいが 厳しさモードに入っていて 自分へ強めに律してしまったり。 そのモヤモヤが 書き進めなさや 書き足りなさとして フィット感を得られないまま 文章の苦手意識が 育ってしまうケースがあるのです。 ただひとつ あなたが当たり前に使っていた その優しさは あたたかい配慮だと 自覚することで ハツラツとした喜びが ほのほのときらめいてくる。 最初は照れくさいような くすぐったいような喜
3 日前
2025.1113 木
センスがある。 センスがない。 よく聞く言葉だけれど、 ぼくはあまり 使わないようにしている。 この前の 書くことが楽しくなる文章教室で センスあるないの件が 話題に出たので ここでもシェアしてみたい。 ぼくも 書くことを仕事にしていると 文章のセンスがあるんですねと 言われることがある。 そこに他意はないと思うのだけど、 センスなんかで 仕事やれねえよ。 なめんな。 という ゴリゴリのめんどくさ職人が ひょこっと顔を出す感覚がある。 センスって 都合のいい不確かなものだ。 そんなものに金は払えない。 そんなもんじゃない。 どれだけ向き合って 考えて試して失敗して 練って練って練り上げた時間が その道を進む 原動力として支えになっている。 その想いを 軽視されたように 感じる自分がいるのだと思う。 センスは ほんの少しのエッセンスだ。 どれだけ隠しても隠しても 気配を感じさせてしまう その人ならではのものだ。 そして センスは 誰もが持っていると 信じている。 あらゆるジャンルのセンスを みんなしっかり持っている。 ただ、その量が違うだけだ。 と
4 日前
bottom of page
